教育ママ(パパ)って言葉は否定的な言葉だけど、親は教育ママになるのが正しいと思う

教育ママ(パパ)を親に持っていたら人生が違うものになっていたかも知れない

「末は博士か大臣か」子供が生まれたら親は心の隅でそう思う。
「医者か弁護士」という言葉もある。

博士、大臣、医者、弁護士、どれもすごい仕事だ。なりたくてもなかなかなれるものではない。

蚤野は殆どの人がそうだったようにサラリーマンだった。お陰様で、定年まで大過なく勤めることができたので、まあまあのサラリーマン人生だった。

でも、ご多分に漏れず、「隣の芝生は青い」現象はある。

もしも「博士、大臣、医者、弁護士」だったらな~なんて夢想する。確かにこれらの職業はなるのには大変だし、なった後も大変だとは思う。

自分になんかは勤まらなかっただろうとは思うが、やはりなってはみたかった。

人生の後悔は3種類あると思う。すごく後悔、普通に後悔、ちょびっと後悔である。

コロナで飛行機をキャンセルしたなどは「ちょびっと後悔」になる。

「博士、大臣、医者、弁護士」になれなかったのは、ちょっとランクが上がり、普通に後悔している。

現役時代に回りには博士や大臣こそはいなかったが、医者や弁護士との交流はあった。具体的にいうと、産業医や顧問弁護士だったのだが、会社内での地位はとても高いものだった。我々は足元にも及ばなかった。

そんなのを見るとやはり嫉妬した。

で、医者や弁護士になっておけば良かったなと考えるのは自然のことだろう。

ところが悲しいかな、子供の頃なんかはそんなことは全く考えることができず遊び放題。
医者や弁護士になれるはずがない。

こうした経験は大方の人が持っているだろう。

だから、将来の仕事については親が教えて行かなくてはならない。

ここで教育ママ、(「教育パパ」ー以下同じ)の出番となる。

教育ママという言葉はあまり良い意味で使われないが、教育ママを持つ子供は幸せだと思う。

それは、大学までの進学を親が保証してくれているのだから。
良い大学を入るための叱咤激励なのだから。
子供の将来のことを思い勉強をさせたがる親の愛情なのだから。

蚤野の家は貧しかった。とても大学まで行く余裕はなかった。親も勉強すれとは言ってくれなかった。むしろ、アルバイトを奨励していた。

蚤野が勉強して大学に行きたいなどと言い出していたらきっと親は困っていただろう。

だから、教育ママを親に持つ子供は幸せだと本当に思う。
ただ、教育ママのやり方は問題だ。
勉強しないことに怒鳴り散らすだけの親は最悪だ。そんなのは教育ママではない。正しい教育ママとは、人生を教えることから始めて子供に寄り添うことができる親のことだと思う。

人生で大切なのは何か、仕事はなぜしなくてはならないのか、仕事をするうえでどのような仕事をした方が良いか、そのためにはどのような勉強が必要かをきちんと話すこと。

勉強方法や時間管理をきちんと教えること。親も勉強を教えることなどが必要だ。
教えるのが難しければ、自分も一緒に勉強すること。高校生ぐらいになるともう難しくなるが、小学校、中学校ぐらいなら、まだまだ教えることができると思う。

勉強をするということは子供の将来の選択肢を広げることになるのだ。

大いに教育ママになるべきと思う。