殆どの人は子供にお手伝いをさせるべきだと考えていることと思う。しかし、一歩間違うとお手伝いという児童虐待になることを忘れてはならない。子供のためのお手伝いと児童虐待となるお手伝いの違いは何かを探る。
目次
肯定できるお手伝い
この辺は考え方の違いはあると思うが、大体は子供にお手伝いをさせるべきだと考えているだろう。
お手伝をさせないと子供が家事のひとつもできなくなってしまう、とか、家族の一体感はお手伝いで生まれる、親子のコミュニケーションになる、自立につながる、責任感が身につくなど色々とメリットが言われている。
子供が自発的にお手伝いをしたがる場合はそうかも知れない。親がやっているところを見て、自分もマネしたいとか、やってみたいと思うなら、子供の意を汲みやらせることは、それは本当に良いことだ。
親子の仲睦ましさが手に取るように見えて本当に微笑ましい。
そんなお手伝いなら、とっても肯定する。
お手伝いの強制は児童虐待だ
しかし、世の中には児童虐待かも知れないお手伝いもあることを認識して欲しい。お手伝いという名の児童虐待だ。
児童虐待を行う大義名分は教育だ。教育のつもりだったが指導が行き過ぎたとか、言い訳をする。子供が怪我をしたとか死亡したという結果があると我々はそれは虐待だと騒ぐが、だからと言って怪我も何もしていなければ教育になるというわけではない。
教育の名のもとでのお手伝いは虐待につながる場合があることを忘れてはならない。
私のやってきたお手伝い
私事で恐縮だが、私の母親は家事は全くできなかった。だから、私を手足のように使っていたと思う。廊下の拭き掃除、洗濯の手伝いなどは、もの心付いた頃からやらされていたと思う。思うというのは正確にいつからいつまで何をやらされたかということはもう50年以上前のことなので正確には覚えていないからである。それだけ小さい頃からだった。中学生になってからは新聞配達のアルバイトをずっとやっていたのでお手伝いはやらされていなかったと思うので小学校低学年の頃のことと思う。
こうしたお手伝いは兎にも角にも嫌だった。できが悪いと何度でもやり直しをさせられた。子供のことなので、掃除でどこが汚れているかは良く分からなかったのに、汚い、汚い、もっと綺麗にすれと叱られた。きちんとやるまで叱られた。
その度に何で俺がしないとならないのかと思った。本来は自分できちんとやるべきではないかと思っていた。
だから、今でも「お手伝いって必要だよね~」という人がいると、私から言わせたら能天気と思ってしまう。お手伝いをしたくないときに強要されたらどう思うのかと。
結局、私は親の遺伝(と思う)で掃除、洗濯等の家事は今でもできない。お手伝いをするときちんとできるようになるというのは嘘だ。
自分が家庭を持ってからは子供にお手伝いはさせていなかった。別にこのような考えがあるからという訳ではなく、お手伝いをさせる必要性がなかったからだ。家事は妻が責任を持ってやっていたし、子供は特段家事をやりたがらなかったからである。
それで子供たちが何か不自由なことになったかというと全くない。一人暮らしのときは、きちんと家事をしていたし、現在も、きちんと働いていて何ら問題がない。
問題があるとすれば、お手伝いを強制的にやらされて来た私の方で、ひねくれた性格になったのではないかと思っている。
家族は自分の役割を果たすことが大事
家族間のコミュニケーション程度なやんわりしたお手伝いなら歓迎だ。しかし、それが子供のタスクになってしまったら何かおかしくはないだろうか。家族は家族としての各構成員の持つ其々の責任を果たすことで維持、運営されているとは思わないだろうか。
仕事をして収入を得る役割、家事をする役割、そして子供は勉強する役割があり、それぞれその役割を全うすることで家庭が機能しているのではないだろうか。もちろん、互いの了解のもとにそれぞれの役割をオーバーラップすることは構わないが。
別に男女で役割を分ける必要はない。家族内で役割が認識されていれば良いのだ。共稼ぎなら家事も互いにやる、女性が働いているなら主夫の夫が家事をする、それで良いのではないか。
何を言いたいかと言えば、本来、家事の役割を受け持っている者がいればその者が家事というその役割を果たすべできであって、強制的にお手伝いという名目で子供に役割を委譲してはいけない、子供に強制してはいけないということである。
尤も、例えば、シングルマザーで忙しいなか、乳飲み子を抱えていてその子の世話を子供でもしなくてはならないとか言う切羽詰った状況なら話は別だ。子供でもその状況が分かるはずだ。
しかし、それ以外の、親がきちんとタスクをこなせるに拘わらずに、強制して子供にお手伝いをやらせることはそれは責任放棄であり、子供に対する虐待であると言わざるを得ない。