老害という言葉がある。老人が年齢を盾に自分勝手なことを言ったりすることだ。
人は年を取ると人間が丸くなると言われるが、そうはならない人が一定程度いる。
いや、もしかすると、人間が丸くなるのではなく、角が出てくるのが年を取ると言うことなのかも知れない。
好かれるためには老人はもっと素直になるべきだ。
目次
老害の実際
クレームを付けて来る人は老人が多いような気がする。やることがなくて暇なのかどうかは分からないが、兎も角イチャモンを付けて来る。
正義の名のもとの暴力をかざすのも老人に多い。
あるとき、部下が不祥事を起こした。なぜか、その矛先が私に来た。延々と3時間、同じことの繰り返しを主張し続けた。不祥事を起こすのは上司の指導が悪いからだと。70代半ばの男性だった。
義憤にかられることはあると思うが、だからと言って何を言っても良いことにはならない。
年上だからと言って年上の言うことを何でも聞かなくてはならないということにはならない。
老害を及ぼす者の共通点は全て自分が正しいという前提がある。年を取ってるだけで自分が偉いと勘違いしたり、年上を敬うべきだと言って自分の考えを曲げないのだ。
他人の言葉には耳を貸さない。高齢者は年齢を重ねているだけ、間違いがないという考え。
しかし、周りには良い迷惑だ。
「高齢者になると自分の意見も言っちゃいけないのか」と言われるかも知れないが、意見を言うことは自由であるが、意見を押し付けること、意見を強要することが良くないのである。その言い方もあるし、結論が出ない事柄を延々と主張することも良くない。
年長者だからと言っても敬われる時代ではない
年上を敬うことは当然と思われてはいた。だが、最近はそうではない。
この「年長者を敬わなくてはならない」という考えはどこから来ていたかは不明である。理屈で考えると、人は年齢だけで敬われるほど簡単でないはずだ。
もともと年長者を敬うということは二つの意味があるのではないか。ひとつは、年長者なので人生経験豊富で物事を良く知っているので敬われること。
二つ目は、肉体的、精神的、能力的にも劣化してきている弱者なので労りを持たなくてはならない、何れ自分たちも通る道なのだからということ。これらを含めて「高齢者は敬われる存在になる」と定義付けたのではないだろうか。そうした教えが綿々と受け継がれてきたと思う。
前者は、最近のITなど若者でなければなかなか理解できない事柄も増えてきたなど、人生経験だけで渡れる世の中ではなくなってきた。後者は、本来のあるべき論であって、劣化したことが敬われることの理由でない。単なる同情的なものだ。
そう考えると年齢だけで敬われる時代は終わったと言えるのではないだろうか。
その昔、職員同士で喧嘩をしている場面があった。年長者A「年上を敬え」年下B「敬われたければ敬われるだけのことをすれ」
両者とも当時としては言っていることが正しかったと思う。正しいからこそ平行線だったのだ。ただ、どちらかというと最近は年上だからと言って敬われるのではないという傾向が強くなっている。敬われたければ敬われるだけのことをしなくてはならないとする方が正解だ。
少なくとも、老害的な行動はしてはいけないということだろう。
素直な高齢者になろう
この老害という言葉は最近良く言われ始めたものだ。これはもしかすると、今までは長幼の序ということで見逃されてきた高齢者の横暴が時代の変化とともに白日の下に晒されてきたことを意味するのかも知れない。前述のように高齢者だからと言って敬われることは少なくなってきているからだ。
一方、高齢者の側にも、高齢者として見て欲しくないという欲求がある。あるときは、高齢者として見て欲しい、あるときは見て欲しくないと使い分けされるのは困りものだ。
端的な例が、公共交通機関で席を譲られたときの対応だ。素直に「ありがとうございます」と言って座れば良いものを「いえ、結構です。」と断る人が多くなってきている。高齢者となったことを認めたくないのだろう。
私も最近は席を譲るということはしなくなった。まあ、自分が譲られる側になったということもあるが、高齢者のこうした非礼を何度も目の当たりにしてきたからである。
最近は、高齢者が満員電車に乗ることはいかがなものかと極端にも思い始めている。時間があるならもっと空いている時間に乗れば良いのにとか、1本待てば座れるのにと思ってしまう。人にはそれぞれ事情があるので勝手な話かもしれないが。
何れにしても、老害という言葉が台頭する現代は老人に対して厳しい時代だ。高齢だけで敬われる時代は去った。高齢者・シニア、はたまた老人は老害を認めてできるだけ素直になるべきだ。自戒を込めてそう思う。