千葉小4虐待死事件:虐待という言葉で矮小化してはならない、親による殺人事件、子殺しである、再発防止に司法権の導入が必要

再び親による凄惨な事件がまた発生した。つい先日も同様な事件はなかっただろうか。当時の反省は活かされていたのだろうか。

タイトルには「虐待死」と書いたが、私は、この言葉に違和感を持っている。虐待の結果死亡したのでそういう言葉なのだが、死んでしまったのも虐待があったから止むを得ないというように読める。

報道が正しく、虐待の結果死亡したとすると、これはれっきとした殺人事件で父親は殺人犯なのだ。殺人を犯した凶悪犯に間違いない。そうした視点できちんとこの事件を解明して行かないとならないと思っている。

アンケートのコピーを渡したのはなぜか

今、検証が求められるのは、2017年11月6日に通っていた市立山崎小学校で実施された「いじめにかんするアンケート」に被害者の栗原心愛さんが書いた「父親から虐待を受けている」と書いた内容を父親に見せたことだ。

アンケートに「ひみつをまもります」と書いていたのに全く秘密は守られなかった。

心愛さんはアンケートの同日、千葉県柏児童相談所に一時保護されたが、12月27日に解除。翌18年1月15日、市教育委員会はアンケートのコピーを父親に渡した。

心愛さんは直後に市立二ツ塚小に転校。その後、2回あったアンケートにいじめを訴えることはなかった。

そりゃそうだろう、アンケートに正直に虐待を訴えたのに拘わらず、秘密は父親にバレバレではアンケートなどは誰が信用するだろうか。頼りになどできないと結論付けるのは当然だ。

私は、その後、虐待が把握されなかった原因を作ったのはこのアンケートの漏えいがあったからこそと思っている。

市はアンケートのコピーを公表した理由を「父親が虐待を認めず、しつけと言っている。心愛さんの名誉のため、公表することが必要と判断した。不適切であった。」としている。

「心愛さんの名誉のため」としているのが意味不明だ。アンケートを開示することがなぜ心愛さんの名誉と関係があるのか。

ここは名誉なんかではなく、児童相談所等に連絡したことを心愛さんのせいにしているとしか読み取れない。名誉という言葉を使うなら、担当者が嘘を言っている訳ではないという担当者の名誉のためなのではないか。

いずれにしても、アンケートを渡してしまうと、「こんなことを言いやがって」と思うのは当たり前だ。虐待がエスカレートしてしまうことは火を見るより明らかなのに、父親からの威圧に負けてしまったのだ。

「威圧的な態度に恐怖を感じ、屈して渡してしまった」とは何たる言い訳か。公務員は市民からの無理難題、不法要求には毅然とした態度を取らなくてはならない。できるものはできる、できないものは絶対にできない、ときちんとすることが行政を預かるものの責務だ。その責任を安易な方向に流れて放棄するとは残念でならない。

教育委員会は、このようはモンスターペアレントなどの対応ノウハウはできていなかったのか。いなかったとすると、危機管理が全くなっていなかったことになる。

関係機関間の連携はどうだったか

教育委員会と児童相談所との連携はどうだったのか

翌18年1月15日、市教育委員会はアンケートのコピーを父親に渡したが、なぜ児童相談所に確認を取らなかったのか。

当然、アンケートを渡すことは児童を危険に陥れることになるとの認識は児童相談所は持っていたはずだ。

ここで教育委員会側は児童相談所に連絡をなぜ入れていなかったのかが不明だが、日ごろから連携があるなら、少なくとも連絡を入れていただろう。日ごろの関係性の構築が喫緊の課題だ。

転居先小学校と転居元小学校の連携はどうだったか

転居元小学校でアンケートを渡すという愚行を行わざるを得なかったほどの父親であるなら、状況の詳細を転居先小学校へ情報提供していてしかるべきではなかったか。

実際の連携の有無がどうであったかは不明であるが、そうしたハイリスクであることが分かるような内容の引き継ぎがきちんとなされていたのであろうか。

児童相談所の危険性がないという判断は正しかったのか

11月6日に保護し、12月27日に解除している。先ず、この解除が正しかったのか。

保護解除の判断はさまざまなカンファレンスにより行われるものと思う。危険性がないという色んなエビデンスを評価するものだ。ところで、こうした中で最も危険性がないと判断されるのは、被害を受けている本人、加害者である父親の言動によることは当然だ。そのためにも担当者は家庭訪問を繰り返したはずだ。

本人が「虐待はもうない」、父親が「虐待はしていない」となれば家に帰さざるを得ないだろう。

問題は、それが本当かどうかをどのように判断するかだ。今回は虐待がバレないように見えない部分を殴るなどしていた。だから外見では判断ができない。

虐待把握は司法権の導入という方法がある。

2/6児相の対応が報道されたので追加

子供を守るためには司法権の導入を

子供の保護を決定することは親や子の権利を制限することとなる。このため、権利という法律的概念を行使するには、様々な実態を適切に評価するという高度な法的解釈が求めれる。

児童相談所の職員は専門性が高いとはいうものの、法律の専門家ではない。

以下Wikipediaより引用。

保護者等から子どもを引き離し、児相の保護下に置くため、親権者の親権及びそのほかの権利、または子どもにも居住権の制限を生むため、手続きの適正化のために司法審査を導入すべきとの声(いわゆる「ブレーキ論」)もある。一方で、児相の行政権行使に司法権が関与することで、行政権行使の適正化が公に認められるという意義(アクセル論)も司法手続きを支持している。

このように、保護するにも解除するにも司法手続きを得ようという考えがある。私はこの考えに同意する。

もしも、今回、この司法手続が行われていたら、児童相談所での保護解除は行われなかったのではないかと思っている。

親をどうフォローするかという視点が大切だ

更に、現在の子供の保護の在り方の中で、親をフォローする手立てがない。あくまでも子供をどう保護するかしかない。

児童相談所は子供を扱うため、仕方ないと言えば仕方ないかも知れないが、児童虐待は被害者としての子供の問題と、加害者としての親の問題があることを忘れてはならない。

親が虐待を行う理由は何か、どこにあるかという視点に欠けている。虐待をしている親が虐待を止めるためにはどのような方策が必要かという視点だ。

もしかすると、経済的困窮かも知れないし、精神的疾病があるかも知れない。こうした視点で親をフォローして虐待を防止するということはできないのだろうか。

児童虐待は子供の問題と親の問題という複合的なものなのだ。

最後に

いずれにしても、起こってはいけないことが起こってしまった。少なくとも、子供がSOSを出せる環境を構築すること、SOSを出した子供をどうフォローするかということを早急に考えて行かなくてはならない。