選択的夫婦別姓の議論が盛んだ。議論することは良いことだ。アンケート調査では若干反対が多いようだが、これは70代以降の反対が多いためである。この70代以降の反対が多いのは昔の「家」という概念がまだあるからだろう。
70代未満は逆に賛成が多くなっている。このため、将来的には選択的夫婦別姓となるだろう。
選択的夫婦別姓が可能となっても結婚後は同一姓を名乗るとする者の方が多いというのは興味があるところだ。
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選択的夫婦別姓の議論はなかなか難しい、メリットもあればデメリットもある
選択的夫婦別姓議論を認めるべきとする主な理屈は「96%もの夫婦で夫の姓を名乗っており、男女不平等だから」というもの。選択的夫婦別姓の制度にしないと男尊女卑となるということだ。
一方、選択的夫婦別姓を反対するのは、家族の一体感がなくなるとか、親の姓が違うと子供に影響するなどというもの。
しかし、両者とも決定的な説得力に欠ける。
男女不平等って、法律で必ず男性の姓を名乗るようにと言うのなら不平等だが、互いに話し合った結果そうなったに過ぎないのだったら別に不平等ではないのではないか。現実的に女性ばかりが姓を変えているし、変えなくてはならない雰囲気が問題となるのであれば「啓蒙」の話であって法律論ではない。
親の姓が違うと子供に影響するって言うのは、子供が不安に感じたり、いじめに遭ったりする可能性を言うのだろうが、夫婦別姓が当たり前になっていればそうとも言えないだろう。
家族の一体感がなくなるって、そんな気もするが、そうはならない気もする。
選択的夫婦別姓で夫婦同一の姓を認めないなら大問題だが、どちらでも良いとするのは選択肢が広がって好ましいよう気がする。
日本人のアイデンティティは変わってきたか
日本人は個より全体を重んじる国民性である。個々の意見よりも全体の意見が正しいとする。全体の意見が声の大きい個人の意見という場合もあるが、何れにしても全体でオーソライズされた事柄に弱い。
企業が不祥事を起こしたときに、テレビカメラの前で一列に並んで謝罪する姿を見て人々は、溜飲を下げる。本来不祥事の当事者間で謝罪すれば済むだけなのに、全体に対して謝罪しなければ「良し」としない国民性なのだ。
個より全体という考え方に凝り固まっている。個を主張すると自分勝手、協調性がないと後ろ指を指される。
太宰治が人間失格で「世間とは何だ」と問うた社会は連綿として続いている。
一方、欧米はそうではない。個人個人の行動が全てである。個人個人の考え方がどうかという個別的社会だ。
選択的夫婦別姓議論を聞いていて、ようやく日本も欧米に近付いたのかと思う。
夫婦別姓が定着するとどうなるか
とは言っても、選択的夫婦別姓が進んで夫婦別性の社会となったらどうなのだろうか。自分の両親の姓が違っていたらちょっと?と思う。隣の家を指すときに山田さんと言えば良いのか田中さんと言えば良いのか分からなくなる。
離婚しやすくなるような気もする。墓にはどうやって入るのだろうか。
結婚するときに、片方が夫婦別姓、もう片方が同姓が良いと夫婦間の考えが違うともめる原因になるのではないか。今なら、暗黙の了解で男性の姓を名乗るというコンセンサスがあるから大丈夫なのだろうが。
夫婦別姓は、ちょこっと不便な社会になることは間違いない。