あの世はあるのか―死後の世界と霊的体験を巡る考察

宗教に凝っている人は、あの世や霊の存在を両者とも肯定するだろうが、実際にはどうなのだろうか。あの世はあるのかという問いは、人類が太古から抱き続けてきた根源的な疑問である。あの世があるとすると、行った人たちは誰一人として戻ってきていないので、とても住みやすいところなのだろう。もしかすると、あの世の暮らしは私たちが想像する以上に快適で、だからこそ誰も帰ってこないのかもしれない。

霊感のない私が考える死後の世界

私には霊感というものは全くない。大方の人たちはそうだろう。なまじ、そんなものがあると恐ろしくて夜道は歩けないので、なくて良かったと思っている。でも、あの世はあって欲しい。死んだ後に何もないというのが真理であれば、死ぬことは何と怖いことになるだろうか。死んでもあちらの世界で生きていると思うことの方が何か夢があって良い。

あの世とはどんな世界なのだろうか。平和で穏やかな場所なのか、それとも現世とはまったく異なる次元の空間なのか。多くの宗教や文化が描く死後の世界には共通点もあれば、大きな違いもある。仏教では極楽浄土、キリスト教では天国、そして日本の古い信仰では黄泉の国など、様々な概念が存在する。

あの世や霊の存在を主張する人たち

あの世や幽霊がいると言う人は、私の考えでは以下の4パターンがあると思っている。

①宗教の勧誘の人
②統合失調症を患っている人
③虚言壁のある人
④本当に感じる人

もちろん、④の本当に感じる人というのは、あくまでも本当にあの世があると仮定しての話だが。しかし、あの世はあるのかという問いに対する答えは、結局のところ個人の体験や信念に大きく左右される。

作家の遠藤周作先生は、幽霊がいるのかどうか興味があり、様々な「出る」という噂の場所を訪ね歩いたらしい。しかし、一度も霊には遭遇したことがないという。先生は①~③の人にしか遭わなかったのであろう。著名な作家でさえ、あの世がある証拠を直接つかむことはできなかったのだ。

科学的視点から見た霊の存在

霊には重さがあり、死んだ人はその瞬間に数グラム体重が減るという説がある。本当だろうか。これは20世紀初頭にダンカン・マクドゥーガル医師が行った実験に基づく話だが、科学的な検証としては不十分だと言われている。あの世がある証拠として科学的なデータを求める声は多いが、現代科学ではまだ明確な答えは出ていない。

テレビで良くやっている霊が出たという話、霊能者は「感じる」とは言っているが本当に感じているのか。心霊写真が偽造でないとなぜ言えるのか。出たその瞬間の映像はなぜその瞬間しか放送しないのか。テレビで見るのは信じがたいものばかりだ。メディアで取り上げられる心霊現象の多くは、演出や誤認、あるいは意図的な捏造の可能性を否定できない。

日本神話に見る死後の世界―黄泉比良坂の伝説

日本の古事記には、黄泉比良坂という現世とあの世を結ぶ境界の場所が登場する。イザナギがイザナミを追って黄泉の国へ向かい、黄泉比良坂を通って逃げ帰ったという神話は、日本人の死生観に大きな影響を与えてきた。黄泉比良坂は現在の島根県東出雲町にあるとされ、今でも多くの人が訪れる。この神話は、あの世とはどんな世界かという問いに対する、古代日本人なりの答えだったのかもしれない。

懐疑的だった私の考えを変えた体験

私は、結局は、巷の話の全部が①~③ではないか、つまり、そう思っているだけの話ではないかと思っている。いや、思っていた。思っていたというのは、実際に私の周りで変なことが続けて起こったからである。これらの体験が、私にとってのあの世がある証拠となった。

体験その1:引っ越しを希望したクライアント

先ずは、私の話。単に幽霊を見た人がいたというだけの話なのだが、以前、福祉関係の仕事をしていたときに、そのクライアントが引っ越しをしたいと言ってきた。聞くと、出るからという。半信半疑で聞き流していたが、今から思うとその詳細を聞いておけば良かったと思っている。その人は精神的に安定している方だったので、①~③のいずれにも当てはまらないように思えた。

体験その2:父の死を告げるチャイム

次に、私の父が亡くなった日のこと、チャイムのなる音を聞いたので玄関に出てみたが誰もいない。誰かのいたずらかと思ったが、そう言えばチャイムの音が違うと思った。方向性がなかった。まるで頭の中で鳴ったような感じである。勘違いと言ってしまえばそれまでなのだが、確かに頭の中で聞いたのだ。父は不遇な人だったので、亡くなってから「もう全てが終わった」ということを告げに来たのかと思った。

あの世の暮らしに旅立った父が、最後に私に別れを告げに来たのではないか。そう考えると、死は終わりではなく、新しい世界への旅立ちなのかもしれない。

体験その3:義父の警告と義兄の事故

極めつけは、義父が亡くなって3か月ほど経ったときのことである。義兄は「父が来ている、ほらそこに」と言って、携帯電話で写真を撮った。その写真には、一部だけ光が映り込んでいた。それから数日後に義兄は事故で亡くなった。義父が、義兄の事故の危険を注意しに来たように感じた。義兄はもちろん、精神を患ってはいないし、嘘を付くような人ではない。

この出来事は、あの世の暮らしをしている故人が、残された家族を見守り、時には警告を発することができるのではないかという可能性を示唆している。義父は肉体を失っても、家族への愛情を持ち続けていたのだろう。

あの世とはどんな世界か―体験から得た確信

こうしたことがあって、今では、あの世も幽霊も信じている。信じないのは手垢にまみれた宗教だけである。

私の体験から推察すると、あの世とはどんな世界かと聞かれれば、現世と密接につながった場所であり、故人が愛する人々を見守ることのできる世界なのではないかと答えたい。あの世の暮らしは、私たちが想像するような苦しみや煩わしさから解放された、より自由な存在形態なのかもしれない。

もちろん、これらの体験だけであの世がある証拠として科学的に証明することはできない。しかし、世界中で報告される臨死体験や、文化を超えて共通する死後の世界の描写などを考えると、何らかの形で意識が肉体の死を超えて存続する可能性は否定できないのではないだろうか。

結論:あの世はあるのか

結局のところ、あの世はあるのかという問いに対する明確な答えは、生きている私たちには得られないのかもしれない。しかし、多くの人々の体験や、古今東西の宗教・哲学が示唆する死後の世界の存在は、単なる幻想として片付けるには重みがある。

私自身の体験を通じて言えることは、あの世の存在を完全に否定することはできないということだ。科学が全てを説明できるわけではなく、人間の経験や直感にも一定の価値がある。死を恐れるのではなく、あの世という新しい世界への移行として捉えることで、より豊かな人生観を持つことができるのではないだろうか。