最後の将軍「徳川慶喜」は戊辰戦争でなぜ味方を裏切り逃避行したのか

歴史上の人物で私は徳川慶喜が好きだ。緻密で決断力に富む徳川家最後の将軍だ。しかし、徳川慶喜ほど毀誉褒貶の激しい人物もいないだろう。明治維新までの慶喜を概観してみる。

15代将軍徳川慶喜、征夷大将軍になる

慶喜が征夷大将軍に就くまでは、紆余曲折があった。かたくなに慶喜が拒否をしたのである。しかしながら、この拒否は、拒否をした結果で、就任後に自身が優位な立場になることを狙ったものと言われている。策士の一面が見える。

徳川の歴代将軍の中でも特異な経歴を持つ慶喜が征夷大将軍に就いた僅か20数日後に孝明天皇が薨去したことは、幕府にとっても、慶喜にとっても不幸なことであった。孝明天皇は誰よりも佐幕家であり、幕府の良き理解者であった。その後に、明治天皇となるが、このときはまだ満14歳。生母慶子の実家である中山前大納言家にいた。外祖父の中山忠能が天皇の公式の保護者となったが、中山は岩倉具視や大久保利通らの工作により討幕の密勅に天皇の捺印を押させた。

薩長の倒幕への動きと渋沢栄一との関わり

そうした中、幕府は条約に基づく兵庫開港を列強から求められていた。幕府が否定すると、列強からすると、日本の政府はどこかという話になる。いきおい朝廷と交渉するということになり、幕府は、列強が朝廷と交渉するとなると、幕府の存在意義はなくなる。それは絶対に避けなくてはならない。このために慶喜が取った行動は、まず、4賢侯会議を開催した。その中には薩摩藩の島津久光もいたが、大久保利通の進言で兵庫開港問題よりも長州赦免を議題にせよと論点が全く擦りあわない。やむを得ず、会議を朝廷の中に持ち込み、昼夜を問わず、議論をしかけて、ついに開港を認めさせた。

この時期、のちに実業家として名を馳せる渋沢栄一は慶喜の家臣として仕えており、慶喜の近代化への理解を間近で見ていた。渋沢栄一と徳川慶喜の関係は、のちの日本の経済発展にも少なからず影響を与えることになる。渋沢は慶喜のもとでフランス留学を経験し、西洋の先進的な制度を学んだのである。

兵庫開港により、薩長の討幕の志士は慶喜に対する評価を高めるとともに、怖れた。同時に薩長は武力による討幕しか道がないことを悟り、討幕へ一直線に進むことになった。

部下に人材がいないと嘆いていた徳川最後の将軍

西郷隆盛らは、江戸での相楽総三らを配し、強盗、押し込み、ゆすり、殺戮などの悪行を行い幕府を挑発してきた。

この騒動に幕府内では薩摩藩との武力による攻撃を行う主戦派が台頭してきた。当時、警察権力などはなかったが、為政者がこれら悪行の統領、悪党の親玉、薩摩藩を徹底的に懲らしめようとするのは当然だ。

いくら世直しとは言っても罪のない人たちを殺すという道理はない。

そこで、徳川慶喜が「そうだ、悪者を懲らしめよう」と言えば、事は簡単だが、そうはならなかった。老中板倉勝静に対して「譜代、旗本の中に西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)に匹敵する人材はいるか」と問い、板倉は「否」と答えた。

慶喜は主戦論に対して「人材がないから戦えない」と言った。弱腰慶喜が出てきた。

本当にそんなやりとりがあったかと疑いたくなるような内容ではあるが、事実とすると、平時から部下育成をないがしろにしていたということに他ならない。

極悪人に対して警察の力が弱いので逮捕しないと言っているのと同じだ。

慶喜が戦えないと言ったところで、当然、悪は懲らしめないとならない。主戦論者は勢いをつけるわけだ。

しかし、慶喜は戦いに否定的だった。慶喜の後世の修飾された述懐もあり、史実は不明にならざるを得ないが、慶喜は開戦を回避すれば、つまり、薩摩の挑発に乗らなければ、勝機が訪れる、所謂、非戦闘と考えた。実は戦闘を回避したがっていたという説だ。

戊辰戦争の始まりと徳川最後の将軍の決断

しかし、慶喜の思惑とは別に「討薩の表」で戊辰戦争に突入した。

戦闘に入ったのは、薩摩藩邸焼き討ちで勢いを付けた主戦派が慶喜に詰め寄り挙兵を迫り、命の危険をも感じた慶喜はやむを得ず、黙認した。弱腰、慶喜第2弾だ。

しかし、これは、慶喜が後日行った説明との矛盾をなくすために当時そう思っていたという言い訳に過ぎないようだ。

事実、慶喜は「討薩の表」で薩摩に「誅戮を加える」との過激なことを言っているのだ。このときは、慶喜は本気で薩摩を討とうと思っていたはずだ。

ここで「討薩の表」が慶喜の本心だったかどうかという点が争いになるが、幕臣、西周にその推敲を依頼していた。

ただ、後日、「そういえばそんな表もあったようだが、うっちゃらかしていた」というような責任回避もしている。

とは言え、「討薩の表」は主戦派の面々に大義名分を与え、公称1万5千の兵が「慶喜公上京の御先供」として北上を開始した。

慶喜の入京と戊辰戦争の激化

慶喜の上京は慶応4年1月3日に予定され、幕府から王政復古政権に平和裏に権力を引き渡すための政治的セレモニーのはずではあった。

これがうまく行けば、辞官納地は相互に妥協して、引き換えに慶喜に議定職が与えられる予定であった。

しかし、こうした平和裏での解決を「良し」としないのが西郷隆盛、大久保利通である。そりゃそうだろう。せっかく、幕府を挑発するために悪事を働いてきたのだから、ここで慶喜にも新政権の一員となられたらたまったものではない。

もともと慶喜の上京は慶喜が新政権で復活を果たすためのものだったが、ここに至っては平和裏に進めることができると考えるのは能天気である。

そもそも、薩長から討幕されないために大政奉還を行ったのに、入京して上手くいくはずがないと踏むのが危機管理と思うが残念ながら慶喜にはそうした考えがなかったらしい。

本来、そうした危機感があったなら、開戦を辞さぬ率兵状況か、武装せずに恭順姿勢を示しての入京の二者択一のはずであったが、現実に取られたのは、大軍をもって威嚇しながら行軍するという中途半端なものであった。

つまりは、戦闘準備をしていなかった。そうした行軍に対して、薩長は、挑発の成果を見せるべく、虎視眈々と戦闘開始を狙っていた。

鳥羽の銃声で戊辰戦争は始まったが、こうした行軍であったため、なんと先頭の歩兵隊は銃に弾さえ詰めていなかった。

薩長軍はたかだか5千人程度、それに対して幕府軍は1万5千。常識的には幕府軍の圧勝のはずだが、結果は見るも無残となった。

鳥羽伏見での戦闘結果を聞いた慶喜は「討薩の表」とはどういうことかと陸軍方に詰問した。自分が書いた「討薩の表」をどういうことかと聞くのもおかしな話だが、ここから慶喜が知らぬ存ぜぬを押し通そうとしたことが垣間見れる。

一方、公卿たちは、今まで西郷、大久保らが宮中にいても近寄らなかったものが、満面笑みを浮かべてすり寄って来るようになった。

慶喜の逃避行と戊辰戦争の転機

こうしたなか、鳥羽伏見の戦いで朝廷は征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王に錦旗と節刀を与え錦旗が翻った。錦旗で薩長軍は奮い立ち、幕府軍は戦意消失した。

これに驚いたのが慶喜で直ちに兵の引き上げを命じたが、主戦派はこれに従うはずがない。一方で兵の引き上げ命令があるとあっては前線との指揮命令系統は完全に乱れたのである。

慶喜は、薩長軍に錦旗が翻り、自分が朝敵となったことを悲嘆し、あのとき、家臣の刃に倒れようとも、主戦派を説得していたらとしきりに後悔した。

ここに至っては、大阪城決戦か、後退して時間をかせぎ持論の公儀政体論で押し通すしかなかった。慶喜は後者を取った。

ただ、後退するにしても味方をどう説得するかだ。

ここで慶喜はありえない方策を取った。1月5日慶喜は大阪城で幕府重鎮を前に大演説したのである。「事は決定的段階に至った。たとえ千騎が1騎になろうとも、けっして退くな。奮発1番全力を尽くしてもらいたい。たといここ大阪で敗れても江戸城がある。江戸城が敗れても水戸がある。中途で屈せず、最後の一兵まで戦おうではないか。」

おいおい、これから退こうというときに何でこんな演説をするのか。これを聞いた臣下は感涙して城を枕に死のうとまで決意を固めた。

同日深夜、会津藩士神保修理を大阪城に呼んだ。「七年史」では、このとき神保は「速やかに上京時の行き違いの非を認め謝罪せよ」と慶喜に説いたとしている。

しかし、「昔夢会筆記」では慶喜は、修理は謝罪でなく、「速やかに東帰し、善後の策を立てるよう」進言したとしている。また、「この進言を利用して江戸に帰り恭順しようと心に決めたが一切他言しなかった。試しに諸隊長を大広間に集めて「これからどうしようか」と尋ねると皆異口同音に「少しでも早く出馬するよう」というばかりだったから「これから出よう、皆々その用意をせよ」と命じ、そのすきにひそかに大阪城の後門から抜け出した。」と語っている。

おいおい、ここでも「俺は出陣するぞ」と啖呵を切ったのだ。

この談話は明治44年に話されているが、いかに長い年月が経っていようとも部下の信頼を裏切った話を得意げに語っているのは、色々と後年はぐらかしを続けているなか不思議なことである。

啖呵を切った翌日、1月6日深夜9時頃、こっそりと大阪城を抜け出したのであった。

神保はその後藩士一同から慶喜の東帰をそそのかしたとして、割腹を命じられている。

敗戦後の徳川慶喜と明治維新

江戸に逃げ帰った慶喜は和宮(孝明天皇の妹)に助命嘆願を願い出る。鳥羽伏見の戦いは一時の行き違いであったとしたのだ。しかし、西郷隆盛、大久保利通らは、それでは生ぬるい、切腹をさせるべきと譲らなかった。

ここに割って入ってきたのがイギリス公使パークスだった。パークスは慶喜誅罰は国際法に違反するとものすごい剣幕で反対した。パークスはかつて慶喜と大阪城で会ったことがあり、そのときに感じていた親愛の感情を忘れていなかったのである。

その結果、様々な助命嘆願もあり、慶喜は死を免ぜられた。

その後、西郷、大久保らの心配をよそに、慶喜は一切政治的な動きはせずに一意恭順を貫き、趣味人としての余生を送ったのである。めでたし、めでたし。って、めでたくなんかない。

戊辰戦争の勝利で名実ともに政権を得た新政府。この明治維新により時代は進んだ。文明開化の波に乗り遅れないように富国強兵に努め、列強と肩を並べようとした。この辺りは、まあ、正解。

人間は共通の敵がいると一致団結する。いないとどうなるか。それは、覇権を求めて争いあう。幕末、明治の初めは、並みいる列強の開国要求があり、日本国内で争っている暇などはない状況。そうした中、明治維新で中央集権ができ、政府がひとつになったことの意義は大きい。

争わなかった慶喜が、明治維新の立役者となったことになり、後年、章典を得たことには納得することもある。結果オーライなのだろうが、東北地方で多くの血が流れたこと、慶喜は戦わずして退散したことなど何かがおかしい。

例え明治維新がなかったとしても、列強の先進的な文化等は遅かれ早かれ入ってくる。慶喜は戊辰戦争でなぜ逃避行したのか。

ひとつには朝敵になりたくなかったとの説があるが、私は、弱腰だったのではないかと思っている。

徳川慶喜の側室と家族について

徳川家最後の将軍である慶喜には、正室の一条美賀子のほかに複数の側室がいた。徳川慶喜の側室として知られるのは、新村信、中根幸、一色須賀などである。慶喜には正室との間に子はなく、側室との間に多くの子女をもうけた。特に新村信との間には10人もの子供が生まれており、慶喜の血統は側室を通じて現代まで続いている。

側室制度は当時の武家社会では一般的なものであり、徳川の歴代将軍の多くも側室を持っていた。しかし、慶喜の場合は明治維新後も側室たちとの関係を維持し続けたことが特徴的である。

徳川慶喜の死因と晩年

明治維新後、静岡で謹慎生活を送った慶喜は、のちに東京に移り住み、写真撮影や狩猟、囲碁などの趣味に没頭する日々を過ごした。政治的な野心を完全に捨て去り、悠々自適の生活を送ったのである。

徳川慶喜の死因は、大正2年(1913年)11月22日、急性肺炎であった。享年76歳。最後まで明治天皇への恭順の姿勢を崩さず、政治には一切関与しなかった。徳川慶喜の死因となった急性肺炎は、当時の高齢者に多く見られた病気であり、晩年まで比較的健康であった慶喜も最後はこの病に倒れたのである。

徳川慶喜公墓所について

徳川慶喜公墓所は、東京都台東区の谷中霊園にある。慶喜は生前、自身の墓所について具体的な遺言を残していた。徳川慶喜公墓所の特徴は、徳川の歴代将軍が眠る増上寺や寛永寺ではなく、神式で祀られている点である。これは慶喜が朝敵とされた経緯から、徳川家の菩提寺ではなく、あえて別の場所を選んだためと言われている。

徳川慶喜公墓所は現在も多くの歴史愛好家が訪れる場所となっており、15代将軍徳川慶喜の波乱に満ちた生涯を偲ぶことができる。墓所は質素なつくりでありながら、徳川家最後の将軍としての威厳を感じさせる場所である。