令和発表

新元号が令和に決まった。

でも、「令和」なんて絶対に嫌だ。元号制にはもともと反対だが、反対だから嫌だというわけではない。

第一に令和の令は冷たい印象を与える。「ら」行であり、発音しにくい。霊と同音で違和感がある。「和」は昭和の二番煎じで時代遅れの感がする。

他の候補の6案でも全くフィットしない。英弘に至っては、狩野英孝を思い起こし、笑止千万だ。

和歌からの選出が良い、ということで令和に決まったとか。それなら、最初から、和歌から候補を出すようにすればもっと良い選択肢が出ていたのではないか。

そもそも、出典なんて求める必要があるものなのか。難しいことを言わず、字面の日本語の意味だけではダメなのか。

令和は元々本命であったようだ。どこからかの意図が初めから入っていたのであろう。

思い出すのが、平成の元号を決めたときのことだ。本来、他の案に決まりそうだったが、ローマ字で略すると過去の年号と重なるので、平成にしたという逸話がある。それが本当なら、最初から、重ならない原案を策定しておくべきではなかったのだろうか。

言いたいのは、元号は、はっきり言って、このように「適当」に決められるということ。理屈は後付だ。

原案を広く国民から募り、いくつかの案を国民投票にかけて決めるということにすればまだ納得が行く。こうしていたら、恐らく、令和は選ばれなかっただろうし、もっと良い案が出てきたのではないかと思う。

残念なことだが、世論は令和を好意的に受け止めている。

令和が嫌だというのは少数意見に過ぎない。マスコミも好意的だ。国政に批判的なマスコミも、せいぜい、街行く市民に意見を聞いて、たまたま批判的な意見があってもそのまま放送するという程度の抵抗だ。

決まった以上は、否定することにはならないと考えたのだろうか。それとも、本心から令和を良いと思っているのか。私には分からない。

言えることは、私のように令和が嫌だと言っている者でも、令和を使わなくてはならないということ。

嫌なら使わなけりゃ良いじゃないかと言われるかも知れないが、使いたくなくても使わされるのだ。ホテルに泊まるときの日付欄は令和になっているだろうし、役所に提出する書類もそうだろう。こちらが、使いたくないとしても最初から印刷されている。兎も角使わなくてはならないのだ。

だから、声を大にして言いたい。今後は、元号は使わずに西暦で行くべきだと。日本人だから元号を使えというかも知れない。元号の非合理性は以下に書いた。

令和を使わない方法は海外移住するぐらいしかないのか。残念な世の中だ。