宗教を信ずる者はすくわれる、但し足元を

我々の生活は様々な局面で宗教と関わっています。葬式ではお坊さんを呼び、キリストの誕生日にはクリスマスを祝います。七五三では神社にお参りに行きます。宗教は生活の一部と言っても過言ではありません。そうした宗教観がある一方、一部の宗教においては、極端な教義を信じさせて信心を利用して自己の利益を最大限に図るというものもあります。

宗教とはこういったものです

昔から宗教に関わる争いがどこにもありました。宗教は宗教という名の主義主張です。異教徒を異端視する、自分と違った考えを排除することで成立するのが宗教なのです。宗教は当人の心の中で完結していれば何も問題はありませんが、自己増殖を目的に他者を取り込もうとします。

宗教を信じるとお布施を求められます。究極なのは出家信者です。宗教の教義を学ぶためにその教団で寝起きします。出家するときには個人の財産保有は否定されます。全てを教団に捧げなくてはなりません。出家後も相応の労力を搾取されます。

宗教を否定するものではありません。宗教は必要とする人には必要なものです。

信者には宗教に触れる喜びと触れる不幸があることを忘れてはいけません。宗教は現状が苦しいから逃れようとして信心する、信心することで苦悩から逃れられるならそれは宗教に触れる喜びとなります。しかし、宗教に触れて喜ぶのは前提として苦しみがあるからです。もともと苦しみがあるから逃れようとして信仰するのです。これが宗教に走らなくてはならない不幸なのです。

我が家のこと

私の母親はある新興宗教の信者でした。子供の頃からその集まりに出るように言われ、何度か泊りがけで行ったことがあります。子供の頃のことなので、その教義がどうのこうのというわけではなく、親孝行のつもりで行ったのですが、そこでは、「何にでも感謝しなさい、特に親には感謝しなさい」ということを教えていました。前に出て、今までの生活で感謝することを発表したりしていました。今思うと感謝の強要です。「感謝の心を持つこと」を否定するものではありませんが、それって言われなくても当たり前のことだろうし、言われてする感謝って果たして感謝なのだろうかと思ってしまいます。

「あなたは自分で生きているのではない、神様に生かされているんだ。だから神様にも感謝しなさい」との教えもありました。確かに見えないものや自然に対して畏怖の念、自分や世界の存在に対する感謝の気持ちはあります。ただ、それをそのまま神様に結び付け、感謝の強要をするのはどうなのでしょうか。

宗教は今をよりよく行きたいという思いから信ずるもののようでもあります。私の母親は完全な不安神経症でした。本人にはそうした自覚はなく、病院嫌いも相まって精神的には常に緊張状態を強いられていたようで日常生活でいつも「こわい」「こわい」と言っていました。何が怖いのかと聞いても的を射た返答はなく、当人にとっても何が怖いのかが分からないでいたのです。今から思うと心が苦しいという意味だったものと思います。心が苦しい状態とは当に不安、恐怖が心を支配していたものだったのだろうと推測します。その苦しみから逃れるためには普通の人は精神科で投薬をしてもらうと考えるのでしょうが、母の場合は、自分は正常と思っているので、一切病院に行こうとはせずに、すがったのが宗教だったというわけです。

その宗教には毎月結構なお金を払っていたようです。自分だけではなく、家族、そして先祖への感謝も大事だということで、先祖の分、そして、誰もが可笑しいと思うだろうが、昔近所で自殺した人がいたらしく、その縁もゆかりもない人の分まで。

当然、生活は苦しく、食卓にはおかずは一品、着るものもまともに着せてもらえなかった。そうした状況を見て、父親はどうしていたかというと、当然、注意をしたことはあったのだろうが、母は他人の意見を聞くと自分が全否定されたと感じて、一度でも、注意をするならば半狂乱になって大声で自殺すると脅迫して自分に従わせようとし、結局は皆が母の言うことを聞いてしまい、それに付け込んで自分の好き勝手なことをするという繰り返しで、それが母が死ぬまで続いたのです。

そうしたお布施は恐らく、母は自発的に出していたものと思います。自分の辛さがあるのは信仰心が足らないからだと、信仰のためにはお布施はたくさんしないとならないと考え、半ば強迫観念でお布施をしていたようです。

その宗教はそれでも、まだ良心的だったようで、教団の人は日ごろから母には「お布施はできる範囲で良いんですよ」と言ってたらしいのですが、母の強迫観念から常識外のお金を払っていたようです。

それで救われたのかというと、本人は信仰しているから今の自分があると思っていたらしく、その範囲では救われたのかも知れませんが、私たちから見たら本当に足元を掬われたとしか見えませんでした。

母は、父が病気になったときに、今までのこの宗教は効き目がないから父が病気になったんだと考え、他の宗教に乗り換えて、いつの間にか、家には掛け軸や絵が増えて行ったのです。

もしも宗教がなかったら、母は、病院の精神安定剤で心の安寧を保つことができ、私たちもまともな食事にありつけたのではないかと今でも思っています。

まとめ

人生は食べて寝て、仕事をして趣味をして、楽しんで悲しんでそうして年をとって亡くなる。これが自然でそれ以上でも以下でもありません。亡くなった後のことはそのとき考えれば良いのであって、今から、斟酌してもそれが正しいのか間違っているのかさえ分からないものです。あたかも絶対に正しいとして仮想のものを教えるのは果たして正しいことなのでしょうか。