印鑑、ハンコは日本の文化だ、なくしてはならない。

河野行政改革担当大臣が行政上の手続きではハンコの使用を原則廃止するよう求め、できない場合はその理由を示すよう、各府省庁に伝えた。各省庁の大臣は右倣えで賛同し、省庁内でのハンコを廃止すると息巻いている。コロナ禍のリモートワークが押印のため進まなかったというのが契機らしいが、唐突感は否めない。本当にハンコは廃止してよいのだろうか。

河野行政改革担当大臣は原則廃止であって必要なハンコは存続させるというが、存続させる場合はその理由を明確にするよう求めている。契約書など実印を用いる書類のハンコの必要性は分かるがそれ以外でハンコが必要な理由はあるだろうか。ただ押しているだけのハンコは全廃すべきというが、だとすると、今までのハンコの殆どは廃止となる。

「押印の理由、必要性がないなら廃止するべき」というのは理路整然としており、一見正しいように見える。以前、役所に書類を提出した際に押印がないことで返された。また、押印していてもシャチハタであることを理由として却下されたこともある。外国ではサインが一般的なのにずいぶんと理不尽だなと思ったが、河野大臣の進めるハンコ廃止によってこれらの弊害がなくなることは多いに結構なことだ。

ハンコの押印は民間人が役所に提出する書類、役所内部の書類に分けられるが、民間人の手間暇を省く意味でのハンコ廃止はこのように大いに結構だが、小泉進次郎環境相は閣議後記者会見で、環境省職員が育児休業の取得や各種手当の申請書などを提出する際求めていた押印を同日付で廃止したという。環境省に民間人が提出する書類は全くないのだろうか。まず、廃止を謳うなら内部書類ではなく外部からの書類を優先させるべきではないだろうか。各大臣が身内のことだけ考えることにも違和感を覚える。

ハンコ廃止が結局は役所内部の文書だけだったなんてことはあってはならない。

ところで、ハンコは本当に廃止して良いものか。ハンコは署名に対する信頼性を高めている。署名だけでは間違いなく、その人かどうかなんて分からない。その人でなけりゃ持っていない(と思われる)ハンコがあることで、その人であることの信頼性を一層高めるのだ。軽易な事柄でわざわざハンコを作ってまで身代わりにはならないと考えるからだ。

絵画や音楽などの芸術に対して存在理由を示せと言われたらどう説明するだろうか。絵が何の役に立つのか、音楽はなぜ必要なのか。その理由は、人々がその芸術で感動するから、感銘を受けるからというのが存在理由だろう。なら、ハンコはどうか。押印は確かに芸術ではないが、文書に潤いを与え、見た目が良くなるという現実がある。どんな押印でも、ないより、あった方がその書類が締まる。どことなく格好良く見える。これも一種、人々に感銘を与えているとは言えないだろうか。そう、押印の存続理由のひとつには芸術性がある。ハンコの有用性は芸術性なのである。芸術性に理由はいらない。

押印を無くすというのは、乱暴な議論だ。日本はハンコによる押印文化であり、その文化を支えるのがこの芸術性にある。職人がひとつひとつ手彫りした印影は本当に味がある。機械彫りにしてもアルファベットにはない奥行きがある。この日本文化を効率性のひとことでなくしてはならない。

ハンコのせいでリモートワークができないと悪者にされたが、その不必要な紙の決済をなくせばいいわけで、ハンコが悪いわけではない。ハンコをなくし多くをデジタルすると、情報漏洩やハッキングの問題もまた新たに生じてくる。どうしても紙が必要だというお年寄りもいる。デジタルが苦手な人が生きづらい世の中になっていいのだろうか。デジタル化するべきところはデジタル化すべきだが、ハンコなどの選択肢も残すべきだろう。

一見正しそうに見えることに誰もが迎合し、判断や批判をしなくなることは危険だ。極端な例では先の大戦がある。日本が負けることは開戦前から一部の人たちでは周知の事実であったが、誰も言い出すことができなかった。何事も迎合は良くない。裸の王様は裸だと言わなくてはならない。

皆で考えてほしい。